②『娘の誕生』(特別寄稿:大平光代)

川下の両親から暖かく迎えてもらったということもあり入籍することになりましたが、私の養父の三回忌を終えてから、しかも忘れない日にしようということで、2月14日のバレンタインデーに役所に届けを出すことに決めました。ちょうどその頃、妊娠したことがわかりました。そして切迫流産、早産の危機を乗り越えて、平成18年9月3日午前1時7分、緊急の帝王切開で娘を出産しました。

体重2854グラム、身長46センチで生まれた娘は、ほかの新生児と同じように、小児科の医師立ち会いのもと、いろいろなチェックを受けました。生まれたばかりの娘をいそいそとビデオカメラで撮影していた川下は、その時医師から別室に呼ばれました。そして「ダウン症候群の可能性があります。検査に同意していただけますか」と告げられたのです。

川下が病室に戻って来た時、私はまだ全身麻酔で眠っていました。出産と同時に赤ちゃんの頭ほどの大きさになっていた子宮筋腫を摘出した際に大量出血したため血の気が引き、まるでマネキン人形がベッドに横たわっているかのようだったそうです。川下は氷のように冷たくなった私の手をさすりながら、この事実をどうやって打ち明けようかと一人思い悩んだようです。川下はかつてダウン症児の親が手術を拒否した事件に弁護士として関与したことがあり、症状の重いダウン症児を見てきたからです。

私は、出産から4時間余りがたった明け方、麻酔からさめました。川下はその時はまだ何も言いませんでした。一睡もしていなかったので一旦自宅に戻るということでした。そして午前10時ごろ、再び病室に戻ってきました。ベットの側に来て私の顔をのぞきこみ、真っ直ぐに目を見て、ゆっくりと言いました。「ぼくたちの子ども、ダウン症やねん」と。

その時私は思いました。これまで弁護士として、障害をもった子供の母親が、子供の父親でもある夫から非難され、時には罵倒されて苦しんでいる姿を目の当たりにしてきました。そんな子供は自分の子供ではないと言わんばかりに父親としての役割を放棄し、母親一人の責任であるかのような振る舞いをすることもよくあることでした。

私が麻酔から覚めた後、一旦自宅に戻って午前10時ごろに病室に戻ってくるまでの間、川下はこの事実を私に告げられない状態で一人で思い悩み、どんなに辛かったことだろう。私の目をまっすぐに見つめた川下の目が心なしか赤く腫れていたように見えました。そして川下は、生まれた娘がダウン症候群でどんな重い障害を抱えているかわからない状況で「ぼくたちの子こども」という言い方をしてくれたのです。私はその一言で救われました。そして、「たとえどんなに重い症状を抱えていたとしても、精一杯育てよう」と言うことができたのです。

2019年7月4日 17時00分