死刑について弁護士会が言うべきこと(川下清)

〈発言する立場〉

 弁護士会は、日弁連も各単位会も、多様な分野にわたる多くの意見書を出しています。

  いうまでもなく、弁護士は、基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする専門的職業人であり、市民の弁護を受ける権利、裁判を受ける権利を実質的に保障する役割、さらには法の支配を社会の現場において実現する役割を担っています。弁護士会が外部に意見を出すときは、このような使命と役割、とくに憲法保障を担っている者の集団という立場に立って発言しなければならないと思います。

 また、上記のような立場とともに、これらの社会的役割を現実に担って日々活動している専門的職業人として、司法制度その外の制度等が社会において現実に機能している状況をよく知る者としての立場から発言するときには、その内容が説得力を持つと思います。

 このような立場を離れた意見では、社会に対して発信する意義に乏しいし、説得力も乏しいと言わなければなりません。

 死刑制度について弁護士会が言うべきことは、この立場、中でも基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とし、弁護を受ける権利を担っている弁護人として、あるいは被害者の刑事裁判への参加を実質的に保障する被害者代理人として、刑事裁判に関与する役割を担っている専門的職業人としての認識・意見であるべきだと考えています。

 そして、また、裁判というもの、とくに刑事裁判、さらには刑事司法の現実を、その中で日々活動している職業人としての立場から発言していかなければならないと考えます。

 

〈裁判は間違える〉

 このような立場から考えるとき、私たちが言わなければならないことの一つ、しかもその核心にあるべきものは、裁判は間違えることがあるということだと思います。私たちが弁護人として最大限の努力をしていても、あるいは裁判官や裁判員が誠実に公正に判断していても、さらには検察官や警察官も誠実に努力していても、人間のすることですから間違いが生じることは避けられないという事実です。

 以前のように、拷問のような取調による虚偽自白による冤罪というケースはほとんど無くなったと思います。取調べの可視化は取調べのあり方をかなり変えています。

 しかし、客観的証拠と思われてきた血液鑑定やDNA鑑定など

が技術の進歩によって否定され、誤っていたとされた事例もあります。

 さらにいえば、メンタルの問題とくに精神鑑定の現状は、問題が多いと思われます。

 もっと言えば、我々は、冤罪を完全に防止することはできないし、そのような司法制度を作ることもできないということです。

 

〈我々の実体験〉

 弁護士の中でも、死刑事件を担当した経験のある方は少数です。まして冤罪を主張する事件を担当する機会は稀でしょう。しかし、我々の大半が日々向き合っている刑事裁判、さらには民事裁判をも含めて、裁判全体を通じて観察すれば、間違った裁判、又は間違いを含む裁判というのは決して珍しくありません。この事実は、我々弁護士が日常的に経験するところです。私たち弁護士は、その専門的職業人としての実体験において、裁判は間違えることがあるという現実をよく知っているのです。

 日弁連総会で、「死刑廃止及び関連する刑罰制度改革実現本部」の予算について議論になった際、死刑廃止決議等について、上から目線で市民を啓蒙しようとするものだという批判をされた方がありましたが、そういうことではないでしょう。裁判員裁判によって市民が刑事裁判に参加されるようになったとはいえ、まだまだ裁判そのものについても、裁判の前の捜査の実情も一般によく知られているという状態ではありません。我々は裁判と刑事事件捜査の現実をよく知る者として、間違えることがあるという事実を社会に対して発言していくべきです。

 それは、私たちの専門的職業人としての社会的責務だと思います。

 

〈誤判と死刑〉

 人間が行うものである以上、裁判が間違いを犯す可能性を完全には排除できません。いうまでもありませんが、死刑は執行されてしまうと取り返しがつきません。執行後に間違っていたことが判明しても償いようがありません。

 死刑制度は、無辜の人を殺してしまう可能性をはらんだ制度です。これが正義に適うとは私には考えられませんし、これが正義に適うという説得的な議論を聞いたこともありません。

 もちろん秩序の維持のために必要な犠牲だという正当化論を言う人はいるでしょうが、弁護士、弁護士会が肯うことができるものではないでしょう。

 懲役刑に服した後で誤判が明らかになり、再審無罪になったとしても、刑に服していた時間を取り戻すことはできません。しかし、死刑も同じということはできないでしょう。生きてさえいれば、雪冤の喜びを家族や支援者らとともにすることもできます。

 

〈遺族感情〉

 死刑制度存置の主張を支える強い基盤は、遺族の処罰感情です。遺族の方が加害者に対して強い処罰感情を表出されるとき、私たちは、ただ黙って聞いていることしかできません。

 死刑廃止論を唱えると、遺族の感情に共感しない、理解しない人間であるかのように非難されることがありますが、それは違います。

 遺族の悲しみや苦しみを理解できない人間、共感できない人間は、無辜の人が死刑になっても苦痛を感じないでしょう。

 また、死刑について考えるとき、自分の家族が殺された場合を想像してみろと言われることもあります。言われるまでもなく、死刑制度の存廃を考えるときに、自分の家族が殺された場合のことを考えない人はいないでしょう。そして、その場合に感じるであろう怒りや悲しみ、さらには処罰感情の想像が、現実の遺族の怒りや悲しみ、さらには処罰感情への共感となって、死刑維持論を支えていることは明らかです。

 もちろん、私も、一人の人間として、愛する家族が被害にあったらどう思うだろうと想像します。加害者に対して殺してやりたいほどの強い憎悪を抱くであろうことを否定しません。ですから、遺族の処罰感情を十分に理解し、共感もします。妻である大平も、自分は弁護士として、あるいは宗教人として、死刑制度に反対だけれども、自分の家族、愛する娘や夫(私のことです。)が被害にあったら同様だと言います。

 

〈共感対象〉

 しかし、死刑について考える際に、自分の家族が被害者になった場合を想像するのであれば、少し想像の幅を広げて、自分や自分の家族が冤罪を被って死刑になる場合を想像してみることも必要ではないでしょうか。

 犯罪とくに殺人や強盗殺人などについて考えるとき、一般市民にとって、いえ、弁護士にとっても、自分自身や家族が被害者になる場合を想像することは容易にできるでしょう。しかし、冤罪を被ることを想像することは容易ではないと思います。

でも、松本サリン事件では、被害者の夫が冤罪を受けて重要参考人として連日の取調を受け、マスコミによって加害者扱いをされていました。東住吉事件では、娘を火災で亡くした母親とその内縁の夫が保険金目的で殺害したとして有罪になって受刑していたことを想起すれば、誰にでも起こりうることだということが理解できるでしょう。

 さらに、弁護士は、冤罪を訴える被告人の弁護人になる場合を想像してみるべきでしょう。それほど難しいことではないでしょう。刑事事件を担当していれば、想像にとどまらず現実になる可能性があります。

 再審の準備をしている最中に、執行されてしまった弁護人の嘆き、もう少し急いで準備して、早く申立てをしていれば執行されなかったのではという悔いに共感を覚えないでしょうか。

 

〈立場の互換性〉

 私は、在野の一弁護士として、弁護士の意見の価値は、その立場の互換性に基礎があると考えています。今日は加害者の代理人になり、明日は被害者の代理人になる、使用者の代理人になったり労働者の代理人になったりします。双方の立場の利害、当事者の考え方、感じ方をよく理解できます。これが紛争の落としどころを見いだし、依頼者に説明し、解決策を説得する際に大きな根拠になっています。

 もちろん労働者の立場でしか受任しないという考えの方もありますが、使用者側の考え方を認識し、理解していないと紛争を上手に解決することができません。

 相手方の立場、認識を理解し、被害者の立場に共感しつつ、被疑者被告人にも理解できるところを見いだし、裁判官への見え方を、捉えられ方を考えながら弁護しなければ、いい弁護活動とはいえないでしょう。

 我々弁護士が、冒頭に述べたような立場に立って、社会の多様な立場、利害を認識し、理解した上で、成熟した議論によって形成したコンセンサスを表出してこそ、社会において影響力を持つことができるのだと考えます。

 

〈裁判員〉

 裁判員制度が実施されて十年が経過しました。

 裁判員裁判で死刑が宣告され、控訴審で破棄される例が報道され、批判されています。

 しかし、まだ、裁判員裁判で死刑が確定し、執行された後に誤判が判明した事例は明らかになっていません。そういう事態が露わになったとき、死刑に賛成した裁判員たちはその後の人生を安穏に送ることができるでしょうか。

 

〈まとめ〉

 以上のとおり、様々な立場の主張に耳を傾け、想像力を豊かにして、それぞれの怒り・悲しみに共感しながら、議論していきたいと思います。

 私は、それを踏まえてなお、我々弁護士は、その専門的立場から、間違った裁判によって人を殺してしまう危険性を否定できない以上、死刑制度は廃止するべきだと訴えていく責任があると考えます。

2019年10月17日 12時00分